稲城の歴史講演会に行ってきたよ

多摩

どうも、じゅじゅいちです。稲城市の稲城の歴史講演会に行ってきました。

稲城市は1889(明治22)年に6か村が合併し現在の枠組みの稲城村が出来ました。去年の2019年で130周年ということで記念に様々な行事が行われてきましたが、その集大成として稲城の歴史講演会が2020年2月8日に開催されました。

場所は市役所の隣りにある中央文化センターホールです。

まず高橋市長の挨拶から。その後「稲城六か村と稲城村の成り立ち」というテーマで講演会。講師は稲城市文化財保護審議会会長の桜井昭男先生。その後クイズ大会もあったようですがこちらは不参加です。

特に関心を持った点を紹介。江戸時代における稲城市域の領主の変遷について。徳川家康が江戸に入ってきてすぐの頃は幕府領となり代官が領主でした。これはまだ豊臣秀吉への対応が必要だったため、甲州側の守りが必要だったことによるとか。その後豊臣の心配がなくなると次第に旗本領に変わっていきます。さらに徳川吉宗の時代に入ると今度は旗本領に加えて幕府領という複数の領主による相給という形に変わりました。これは吉宗の享保の改革により新田開発が進められ、新しく出来た耕地を幕府領としたとか。新田開発と言っても実態は耕地でもないところを無理やり耕地としてそこに年貢を取ったところもあるとか。

続いて改革組合村について。江戸時代に入り人口が増加してくると次第に治安も悪くなってきます。しかし領主が入り組んでいたため広域的な取り締まりが難しい状況にありました。そこで関東取締出役という広域的な警察活動ができる組織を作りました。しかし関東取締出役だけでは手が足らず、複数の村が組合村を形成しその活動を支えました。稲城市域は大丸・長沼・百村が所属していた府中宿組合、坂浜・平尾が所属していた小野路村組合、矢野口が所属していた溝口村組合、押立が所属していた布田宿組合の4つに別れていました。地理的に別れていたことが影響していますが、当時としてはそれぞれの村の関係性が薄かったとも考えられますね。

江戸時代まで稲城市域に長沼村がありましたが、八王子市域にも同名の村がありました。1878(明治11)年になると南多摩郡が成立し、それぞれ東長沼村と西長沼村に改称されました。稲城市は今でも東長沼ですが、八王子市は1956(昭和31)年に西長沼から長沼町に改称しています。

稲城市に押立がありますが、これはもともと押立新田と呼ばれ押立村(現在の府中市)の新田開発で誕生した村でした。多摩川の流路の変化で押立村から離れて多摩川の南側になったということです。飛び地解消で1949(昭和24)年に稲城市に編入されました。多摩川流域ではこのようなところが多いとのことです。

面白い話がたくさん聞けました。それではまた次の講演会でお会いしましょう。

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