三鷹事件と御門訴事件の地を訪ねる

多摩

どうも、じゅじゅいちです。

三鷹事件と御門訴事件の地を訪ねてみました。

三鷹事件は1949(昭和24)年7月15日、三鷹駅で起きた無人列車暴走事件です。6名が死亡し、20名が重軽傷を負いました。同時期に起きた下山事件、松川事件とあわせて国鉄三大ミステリー事件と言われています。

三鷹事件について書かれた本は少ないのですが、図書館に「無実の死刑囚―三鷹事件竹内景助」という本があったので読んでみました。著者は高見澤昭治さんで再審弁護団団長をしている弁護士です。

三鷹事件が起きた1949年は吉田茂内閣で経済の立て直しのため国鉄から10万人もの人員整理を計画していて、これをめぐって労使が対立していた時期でした。そんな中、7月4日に第一次整理通告が行われました。そして7月6日に国鉄の下山総裁が轢死体で発見されるという「下山事件」がありました。さらに7月15日に三鷹駅で無人列車が暴走する「三鷹事件」が起きました。捜査当局はこれを共産党員の計画的犯行と憶測し、労組関係者10名が逮捕されました。後に死刑となる竹内景助さん以外の9名は共産党員だったということです。この事件も関係してか人員整理反対闘争は挫折してしまいます。1950年の一審で竹内さんに無期懲役が言い渡され、他9名は無罪という判決が出されました。二審では竹内さんに死刑が言い渡されます。さらに1955年に行われた最高裁では竹内さんの死刑が確定しました。その時の裁判官は8対7で拮抗していたとのことです。1967年に竹内さんは脳腫瘍のため45歳の若さで獄死しました。適切な治療が行われなかったので国家賠償請求で慰謝料が支払われています。

三鷹事件の起きた1949年は中国で共産党政権ができ、日本では衆院選で共産党が4議席から35議席と躍進した年でした。政府はこれをなんとか押さえ込みたいと思惑もあってか、三鷹事件の翌日に共産党や労働組合が事件に関係しているかのような声明文を吉田首相が発表しました。当時は占領期だったので事件直後に進駐軍が現場に入り証拠を持ち去ったという話もあるようです。

陰謀説はさておき、この裁判は問題点が多いです。この事件は物証も少なく主に自白によって有罪とされています。しかもその自白も二転三転していること、自白通りに犯行が可能だったかも疑問が残ります。第三者から見れば供述がコロコロ変わるのは変に思えますが、検察に自白を迫られたり、弁護士に騙されたりしたようです。この本を読む限りでは竹内さんはスケープゴートにされたという風に思えます。

2011年に竹内さんの長男が再審請求をしましたが、事件後70年となる先月の2019年7月31日に東京高裁は再審請求を認めない決定をしました。

以前訪れた三鷹市の禅林寺に三鷹事件遭難犠牲者慰霊碑があります。昭和30年建立とのこと。

三鷹駅南口の東側。列車はこちらの方まで暴走したとか。

三鷹駅から西の方に少し歩くとある三鷹電車庫跨線橋。

いい景色だ。中央線は三鷹駅まで複々線化されています。複々線化は混雑は解消されますが、鉄道会社がほとんど費用を負担するため鉄道会社にとってはメリットが少ないとか。三鷹から立川まで複々線化するのにかかる費用は3600億円とも言われています(じっぴコンパクト新書「JR中央線沿線の不思議と謎」より)。

続いては御門訴事件についてです。1870(明治3)年、品川県(現在の品川から国分寺あたりまでの範囲)が社倉制度という飢饉に備えた貯穀制度を出しましたが、武蔵野新田12か村では負担が大きかったためこれに反対しました。役人もこれに一旦納得しましたが、その後約束を反故にするということを繰り返し、しびれを切らした農民はついに日本橋にある品川県庁に門訴しました。門訴とは門の外で訴えることで、門の中に入ると強訴となり罰せられます。県庁側は門の中に入れば話を聞こうと言いましたが、農民はこれを知っていたため門の中に入りませんでした。しかし結局は実力行使で農民を捕まえ、中には獄死した人もいましたが、最終的には農民側の要求が通ったということです。

武蔵野市にある御門訴事件記念碑。 1894(明治27)年に建てられました。三鷹駅からだと武蔵野大学手前の五日市街道沿いにあります。注意していないと見過ごしていまいそうです。御門訴事件によって亡くなった旧関前村・同新田名主忠左衛門らを慰霊すると同時に事件の事蹟を後世に遺すために建てられました。

解説。

それではまた次の事件でお会いしましょう。

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