分倍河原の戦いの地を訪ねる

多摩

どうも、じゅじゅいちです。府中市の分倍河原の戦いの地を訪ねてみました。

分倍河原の戦いは1333年5月に分倍河原で新田義貞が北条氏(鎌倉執権)を倒して鎌倉幕府を滅亡に導いた戦いです。新田義貞は上野国で挙兵し、南下しながら次々と幕府軍を倒していきます。最後の防衛ラインである多摩川で食い止めるべく第14代執権・北条高時の弟である北条泰家が挙兵し一度は新田軍が負けて退きました。このときに新田軍によって武蔵国分寺が焼き払われています。翌日再び分倍河原で戦い、今度は新田義貞が勝利したということです。

分倍河原駅のロータリーにある新田義貞の像。顔は鎌倉の方を向いているとか。

分倍河原古戦場碑。東京都指定旧跡。碑の文言は新田義貞の子孫である新田義美の筆のものだそうです。場所は新田川緑道にあります。「にったがわ」かと思っていましたが「しんでんがわ」が正解です。

府中用水を暗渠化して緑道として整備したんだとか。道の脇には水が流れていていい散歩道です。

分倍河原の戦いと言えば鎌倉時代ですが、室町時代においても分倍河原の戦いがありました。鎌倉幕府が滅亡しても関東の中心地は鎌倉でした。関東を統治するために鎌倉府というのを置き、その長官である鎌倉公方に将軍足利尊氏の四男である足利基氏を任命しました。基氏はまだ幼かったため、これを補佐する関東管領という役職に上杉氏を任命しそれぞれ代々世襲しました。第5代鎌倉公方の足利成氏は関東管領上杉氏と対立し、分倍河原で合戦となりました。このとき成氏が勝利していますが、幕府軍が出てきて鎌倉を占領されます。成氏は下総国古河に拠点を移し古河公方と名乗り、その後も上杉氏と対立することとなります。この後上杉氏の家臣である長尾景春が反乱を起こしたり、山内上杉氏と扇谷上杉氏が内輪もめで対立したり、その混乱に乗じて後北条氏が関東に進出したりと関東における戦国時代が始まるのです。

それではまた次の古戦場でお会いしましょう。

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