五日市憲法草案の地を訪ねる

多摩

どうも、じゅじゅいちです。

あきる野市の五日市付近を散歩してみました。

穴澤天神社です。式内社(論社)で祭神は高皇産霊神・神皇産霊神・伊弉諾神・小彦名神・事解乃男神・速玉乃男神・大山祇神・豊受姫命です。

あきる野市深沢。林道みたいなところを通っていきます。このまま山に入りそうな感じの道ですね。あと顔の描かれているポールのようなものがこの辺り一帯にいくつもありました。

深沢家屋敷跡です。東京都の史跡に指定されています。

昭和43年に当時の東京経済大学の色川大吉教授によってこの土蔵から五日市憲法草案が発見されました。五日市憲法草案は東京都の有形文化財に指定されています。海外の翻訳本など1万点も所蔵されていたそうです。小田急電鉄の創業者、利光鶴松はここに所蔵されていた本で勉強し、その後弁護士になったそうです。

五日市憲法草案は千葉卓三郎が中心となってまとめられました。仙台藩の千葉卓三郎は戊辰戦争に敗れ、各地を転々としていましたが、やがてこの地で学校の先生となりました。地元の有力者であった深沢権八(かつて八王子千人同心を勤めた家系)の支援を受け自由民権運動に参加し五日市学芸講談会に加わりました。国会開設運動で中心的な役割を果たした国会期成同盟の第二回大会で憲法草案を持ち寄ることが決まり、五日市学芸講談会も五日市憲法草案を起草しました。第三回大会は私擬憲法の審議がなくなり自由党結党大会になってしまったため五日市憲法草案は文字通りお蔵入りとなってしまいました。

この五日市憲法草案は204条からなる私擬憲法で基本的人権の保証に多くの条文を定めていて民主的な内容となっているのが特徴です。五日市憲法草案の書き下し文があきる野市のデジタルアーカイブで公開されていますので興味のある方は御覧ください。

こんな山奥で先進的な内容の憲法草案が作られたのはすごいですね。五日市は文字通り5のつく日、または5日ごとに市が開かれていました。檜原村など近隣の村から木炭を仕入れて売っていました。江戸時代になると江戸で炭や木材が大量に取引され五日市も大いに栄えたとのことです。五日市街道という名前は五日市から江戸に向けて木炭を運ぶために通ったのでこう呼ばれるようになったんですね(今尾恵介著「地図でたどる多摩の街道――30市町村をつなぐ道」参照)。これによって五日市と江戸の交流もあり、有力な商人などが欧米の文化に興味を持ち情報収集したということです。五日市憲法草案が生まれる背景にこういうことがあったんですね。

近くにある「山抱きの大樫」です。幹回りが6.5m、高さ20mだそうです。あきる野市の天然記念物に指定されています。

五日市中学校の敷地内(道路に面している)にある五日市憲法草案の碑です。この他千葉卓三郎誕生の地である宮城県栗原市、墓所のある仙台市の計3箇所に同時に設置されたということです。

広徳寺です。臨済宗建長寺派。

立派な山門。

2本の大銀杏。

五日市郷土館。あきる野市の歴史がわかります。古民家の旧市倉家住宅もあります。茅葺き屋根なのですが、職人が少ないらしく京都から来てもらったということです。お値段も家が一軒建てられるくらいするそうです。これから茅葺き屋根の古民家を見る目が変わりそうです。屋根裏にも上がれて、ここで蚕を育てていたみたいです。

手打ちそばの寿庵 忠左衛門。江戸時代から続く製麺所「寿美屋」が20年前に始めたお蕎麦のお店だとか。かつては製麺だけでなく炭を仕入れて売るということもしていて屋号の「寿美屋(すみや)」はこれが由来だそうです。

せいろ。細麺でコシの強い蕎麦。こういうお蕎麦大好き。おすすめです。

五日市の市神様だそうです。

五日市勧能学校跡。現在の五日市小学校の前身だそうです。千葉卓三郎もここで教員をしていたとのことです。明治10年代には自由民権運動の活動の拠点だったそうです。

改憲議論が進む今、五日市憲法草案の地を訪れて当時の憲法に対する熱意に思いを馳せてみてはいかがでしょうか。それでは。

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